

ヴィオラやチェロ、コントラバスなどの生産も加えたHofnerの生産ラインは順調に成長し、1930年代には、アーチトップギターの先駆者 "Schlaggitarren"として知られる、アーチドトップ・バックを持つ最初のギター生産を始める。そして、1930年代中頃には、30人のスタッフと300を超える下請け業者を持つ工場に成長する。
第2次世界大戦当時には、戦争による輸出規制が著しく厳しくなり、工場は軍隊のための木箱やブーツ底等の生産を行うなどして木工加工生産を続けることになるが、戦後、社会情勢は激変し、1945年夏頃までには、企業の国有化やドイツ語の規制などの厳しい管理下のもとに置かれることとなる。これにより、Hofnerファミリーは、西ドイツに移ることを決め、ほとんどゼロから、バイエルン州メーレンドルフにて新たな一歩を踏み出すのである。


Hofnerの代名詞とも云える「President」「Committee」そして「Violin Bass」の3つのモデルは、まさにこの時期に生まれる。
Hofnerの販売や生産はこの時期に安定を見せるが、この後に革命的に起こるカルチャームーヴメントは、この時の誰にも予見できなかったであろう...
Rock'n Rollの到来である
突然、エレクトリックギターへの需要は増加し、ブーベンロイトの工場では急激に生産を増強することになる。アメリカから渡ってきたRock'n Rollの到来は、ヨーロッパで1,000以上のビートバンドを生み、とりわけイギリスにおいて爆発的に火がつくことになったのである。



1961年のアメリカからイギリスへの輸入制限の緩和により、アメリカンギターがヨーロッパのギターマーケットに本格的に参入を始め、1965年から1970年にかけては、Hofnerの販売における落ち込みが加速的な状態になる。
この変化によって、Hofnerは生産の合理化を推し進め、オーケストラ楽器の生産に比重をおいていくことで、この難局を凌ぐようになるが、時を同じくして、Gerhilde HofnerとChristian Bankerは結婚し、共に経営の舵取りを行うことになる。
彼らが直面した1970年から1980年にかけて、日本や中国を中心とした廉価なアジア製ギターが台頭を始め、とりわけ入門用楽器のマーケットでは大きな打撃を受ける。
1994年1月、Hofnerは、いくつもの楽器生産を手掛けるイギリスの大型音楽企業「Boosey & Hawkes」に売却される。ここから9年の間、Hofnerは楽器生産を続けるが、その道のりは彼らにとって、決して幸せといえる時ではなかったのである。更なる生産の合理化に向けてさほどの時間はかからず、最も大きな転機として、ブーベンロイトの工場を閉鎖し、1997年には、近代化と拡張の進んだハーゲナウの新工場に生産を一元化する事となる。
2003年になると、Boosey & Hawkesは、Hofnerを含む楽器ビジネス部門の売却を決定し、The Music Group(TMG)というイギリスの投資グループに経営を委ねる。この体制は2~3ヶ月間だけ続くが、彼らは独立した企業としてHofnerのみの売却を決め、明くる2004年末、Klaus Schollerと彼の妻 Ulrike Schrimpffは、Hofnerを買収する。1995年からHofnerにおいてゼネラルマネージャーであったKlausと、財務ディレクターであったUlrikeは、Graham StockleyとRob Olsenも加えて、共同経営に乗り出す。

Hofnerは、北京オフィスとドイツ本国での一定の人事異動や設備・機械投資などに膨大な努力を費やし、生産品質の向上に努める。今日、Hofnerブランドのステューデントモデルは北京で作られ、ハンドメイド性の強い上級機種は今でもハーゲナウ工場で製作されている。
現在エレクトリックギター開発責任者であるGraham Stockleyはこう言う.....「わたしたちは、滅多に新しいスタッフを雇わない。なぜなら、誰もここを去るようには思えないからね」。
景色のきれいなドイツの片田舎:ハーゲナウにあるHofnerの、温かなぬくもりを感じさせる素敵な台詞である。